大寳八幡宮
(だいほうはちまんぐう)
特徴:
御代に治山治水・学問・漁猟・商工・土木建築・交通運輸・経製・紡績 ・殖産興業の途や武の道をつかさどる神としても名高く、必勝祈願、 大宝の御名に示されるように財運・厄除交通安全・安産等の諸願を 託す人が多く生活に限りなき恩思かがふらせ御神徳は広大にして無辺である
大寳八幡宮
通称 八幡はちまんさま
御祭神名 誉田別命ほんだわけのみこと足仲彦命たらしなかつひこのみこと気長足姫命けながたらしひめのみこと
鎮座地 茨城県下妻市大宝667
連絡先 茨城県下妻市大宝667
電話番号 0296−44−3756
FAX番号 0296−43−2286
郵便番号 〒304−0022
アクセス方法 関東鉄道常総線大宝駅より徒歩3分
ホームページ http://www.daiho.or.jp/
E−メール info@daiho.or.jp
【御本殿】
国指定重要文化財
 三間社流造。天正5年(1577)に下妻城主多賀谷尊経公が再建したことが、本殿回廊の高欄擬宝珠によって知られる。
 建ち上がりも高く、柱も太くてどっしりした重みを見せているが、これに比べて組物は小柄で複雑に組合わされ、桃山時代の地方色が濃くあらわれて派手な装飾は見られず落ち着いたたたずまいを見せている。
【関東最古の八幡宮】
 大宝元年(701)、藤原時忠公が筑紫の宇佐八幡宮を勧請創建したのがはじまりである。
 天台宗の古い経文の奥書に「治承3年(1179)己亥7月22日の末時書了於常陸州下津間八幡宮書了兼智」とあることから、平安末期にはすでに八幡信仰が盛行していたことがわかる。
 平将門公も戦勝祈願の為たびたび参拝し、当宮の巫女によって新皇の位を授けられたと伝えられる。  「吾妻鏡」に下妻宮としるされ、文治5年(1189)、奥州征伐平定の日、源頼朝公が鎌倉の鶴岡八幡宮若宮を勧請し摂社若宮八幡宮を創建した。
 寛政7年(1795)には光格天皇より額字及び御紋付幕を賜り、明治19年には北白川宮より幣帛料が進納せられ、徳川家からは社領115石が寄進され代々の朱印が付されて現存すると共に、代々の大宝城主、下妻城主の崇敬がことのほか篤かったのは言うをまたない。
 千古の連綿とした歴史の中で当宮から勧請された八幡宮は数えきれないが、東京深川の富岡八幡宮が著名である。
【史跡 大宝城跡】
国指定文化財
 境内は平安時代から南北朝時代にかけてあった城跡でもあり、西、北および東方の一部をもとの鳥羽の淡海(大宝沼)に囲まれた東西288メートル、南北576メートルの台地であり、東方も古い時代には沼か湿地であっと思われるから三方断崖に面した要害の地であった。
 ここ平清朝公が築城し、北を本丸、南を追手、東を搦手とした。応徳3年(1086)下津間盛幹公が初代城主となり、約百年後4代下津間弘幹公にして下津間氏は終わりを告げた。源頼朝公の命により大宝城のあとは小山朝政公が治め、小山氏は代々下妻氏を名乗った。
 6代政泰公の代に至り南北朝時代となり、興国2(暦応4)年(1341)11月、常陸国司春日中将顕時公が若き興良新王を奉じて小田城より入城し、東国におけめ南朝方の拠点として、関城主宗祐、宗政父子と相呼応して義旗を翻したが兵糧不足と迫る寒気のため落城した。
 御社殿裏に政泰公の碑が往時をしのんで建っている。
大寳八幡宮
大寳八幡宮
【祭祀】
歳亘祭(1月1日)、節分祭(2月節分の日)、人形供養慰霊祭(3・9月最終日曜日)、春の大祭"大宝まち"(4月15・16日)、高砂部屋・錦戸部屋合同合宿稽古(6月中旬)、あじさい祭・流鏑馬神事(6月最終日曜日)、夏越大祓"輪くぐり"(6月30日)、タバンカ祭(9月12・14日)、秋の大祭(9月15・16日)、菊花展(11月1〜20日)、七五三祭(11月15日)、大祓(12月31日)、おついたち祭(毎月1日)
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